亀山の地名
小櫃川の水源清澄は、神代の昔房総開拓の租天富命み住まいであられたと。故にその名も床しき清澄この一帯が神のみたまの鎮まります山即ち神山である。何時しか上総の国畔蒜庄小櫃谷上郷と言われ上流の山地の意に結びついて上山となり神のおしませ給う宝亀の伝説を生じ上山が亀山となったと言われている。
 古来この地の代表的な氏神と言われる、亀山郷惣鎮守不動尊(亀山神社)、上郷大明神(笹山神社)に各郷名を冠哉されている

笹の地名の起り
 上総の国畔蒜郡美々郷(亀山、松丘)笹の文字の用いられる所以を考察する時、美々はミミと訓ぜられ変じて三三となり遂にササと呼ばれて篠となり今日の笹に落ち着いたものと推定される。
衛士広場について
 地名の由来は、定かではないが戦国里見領時代一時的に房州正木氏に備えるための砦跡か、人工的に造成した跡も見られる。鴨川方面へ向かい鍋石の山中には陣屋の台の地名も残っている。
 昔、里見義弘が安房長狭を見おろす国境(香木原地先)に軍旗をひるがえしたとの話も残っている。
ヅウタ公園について
 この園内に住んでいた人が明治期水田を開墾し毎年面積を増し生計を立てていた様だ、つまり(増田又は造田)ゾウタが後に訛ってヅウタと呼ばれるようになったようだ。

濃溝(のうみぞ)について
 この場所は、現千寿の湯の下の川から四阿及び滝部分まで約300m部分が地元で昔から(のうみぞ)呼ばれた所で、川の土手伝いに水田跡がありのうみぞの田として昭和45年ころまで耕作していた、今千寿乃湯の泉源を崖下の岩肌に溝を穿ち田んぼに水を引き入れ耕作しており一部遺構も残っている。このため農業用の溝の事だと解釈されているようだ。がしかし同様の溝はこの地区の川の土手を利用した引水はたくさんあり同じ方式で水を引き入れ利用していたがそれらは (のうみぞ)とは呼ばれていない。 この語源については、幕藩時代から近くに山林の管理監督者の詰め所と言われた、山見堂(やまみどう)の地名が今も残っており、推察するに山見堂があるなら農見堂(川回しの工事を監督する詰所)があっても不自然ではないと考えられる。笹地先の川回し(伝法洞)が完成まで10年余りかかっている事から、この工事も5〜10年の期間を要したと考えられ当時工事監督者の詰所(農見堂)が現渓流広場エリア内に存在し、近くの滝や・山・川・水田が農見堂の滝・山・川・田と呼ばれ工事竣工後呼び名だけが残り後世のうみどうが訛りのうみぞの滝・山・川・田と呼ばれ現在に至るのではないか?

セイナ沢の語源・・・背稲沢(せいねざわ)が後に訛ったもの。川田が完成し収穫した稲等を背負い歩いた滝状の沢のことです、当時、山見堂鍋石方面への近道だった今も登れます。

頼朝伝説について
 源頼朝が安房に挙兵、軍を三路に分け山路を超える者あり、中央の進路がこの地方に有り鴨川市方面 から 香木原に入り現木更津市の畳が池付近で西岸を進んだ軍と合流したと伝えられている。その一部隊がここ笹方面を通過したことも考えられる。
伝説にまつわる地名など
 @ えぼし台 (香木原地先) 頼朝北上の時風に烏帽子を飛ばされた所。
 A 鍋石 (清水地先) 昔旅人が焼き石を鍋代わりにして炊飯したところ。
 B 本揃 (清水地先) 挙兵軍の本隊がこの地に着いた時殿は、香木原のウラ木澤番所付近を進軍していた。 (旗揚げに合力の武者等が多数加わったと言う伝ばなし) 。
 C 八国台(片倉地先) 北上中休憩し全軍を調べたところ武士の国籍が関東八か国の何れかに所属していたと言う、それ以来八国の地名が付いたと伝わる。
 D 甲坂(笹地先) さらに笹に入って装束を改め烏帽子を「かぶと」に変えたことからその地を甲坂と言うようになった。